生きるとは

新卒で入った前職で、工場長に「お前には軸がない。何かひとつは軸を持たなくてはいかん」と言われた。

当時の僕のすぐ上の上司は、確か32くらいで妻子持ちで両親と一緒に暮らしていて、その人には「軸」はあるけど僕にはないと。


僕はその引き合いに出された上司が大嫌いだったので、自分がその人より劣ると認めるのも嫌だったし、そもそも何を指して「軸」と言っているのか分からなかった。


しかし最近になってそれが何かが分かってきた気がする。

それは例えば、家族を守るための大黒柱になるとか、この仕事で一生やっていくんだ、という覚悟のようなものだと思う。

確かに僕には当時からその仕事で一生やっていくというような気持ちもなかったし、その土地に永住するつもりもなかった。


工場長から見たら、僕は期待している若手だったと思うし会社のためにちゃんと育てたかったのかもしれない。
そこまで接点が多いわけではないのに、よく僕のそんなところを見抜いていたなと思う。

まぁ、そんな工場長の思いも虚しく不安的中で、僕は入社して3年でその会社を辞めてしまったんだけど。


少し話はそれるけど、今の会社はそんな工場長のような年輩の方がいないから、うちに新卒で入って来た人たちはこういうコミュニケーションはないんだよなぁ。
あろうがなかろうが、それはどっちであっても悪いことではないと思うけど。


あれから10年弱経った今、結局僕は軸もなくフラフラしている。
軸を持っていれば、岐路に立ったときに選ぶ選択肢が変わったかもしれない。
軸を持っていないが故に大変なことをしてしまったこともある。


ただ、僕は思う。これが僕なんじゃないかなと。


少し前に、会社のえらい人に「ugon君は飄々としている」と言われた。
「だからうまくやってくれると思うよ」みたいなポジティブっぽい文脈だったけど、根源は「軸がない」と同じな気がする。

この人とは前の工場長よりも接点は少ない。
それなのにこの評価。
よっぽどそう見えるんだろうなぁ。


自分の人生を想像してしまうのが怖いんだろう。
自分にはたくさん可能性があると思っていたい。
だからフラフラしてしまうんだろう。


このままで行って、最後にフッと消えてしまえばそれもありだ。


そうもいかない。
僕もいつか普通に死ぬときがくる。

どうやってそのときを迎えたいか。
孤独に死んでいくのか、知らない人たちに看取られるのか、子供や孫たちに見守られて死ぬのか。
自分の死を真剣に考えたとき、どういう人生を送りたいのかが決まる、軸が決まるのかもしれない。


でも、日本有数の優柔不断男にはそれが決められないのです。


ただ、最後に言いたい台詞は決まってるよね。


「我が生涯に一遍の悔い無し」


こんなブログを書いてる時点でもう矛盾か。